月に1~2本くらい日常をきりとったエッセイを書いてみようかなと思います。暇つぶしにどうぞ。
大磯の海風に誘われて・・・
藤村と吉田茂の眠る街を歩く
コロナウイルスで日本中、いや世界中が息を潜めていたあの頃。それでも春の光に背中を押されるように、私は大磯の街へと足を向けた。
今回の目的地は、吉田茂邸に島崎藤村の旧宅と墓所、そして澤田美喜記念館に大磯港。時期が時期ゆえに、澤田美喜記念館は休館で見学は叶わなかったけれど、それすらも気にならないほどお天気はよく、春の風が心地よく頬をなでる。少し暑いくらいの日だった。大磯の海風に誘われながら、遠い昔に偉人たちが愛した海街を、のんびりと歩いてみることにしよう。
梅の香りと、恋多き詩人の横顔
大磯の梅の香りにさそわれて……と言いたいところだが、あいにく梅の季節ではない。それでも、もし梅が咲き誇る季節だったなら、この藤村の墓所はどれほど趣深かったことだろう。
島崎藤村の墓のすぐ横に並ぶのは、年の離れた奥様のお墓だ。なんというか、いまの時代よりも、昔のほうがどこか情熱的で、色っぽい実話を耳にする気がする。
『まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき……』
うーん、何度読んでも素敵な詩だ。こんな美しい言葉を紡げる人の人生は、きっと恋多き、鮮やかなものだったに違いない。
東海道・大磯宿の松並木
幾人の人が、海を横目に通り過ぎたことだろう。東から西へ、西から東へ。ただ通り過ぎるにはあまりにも惜しい、美しい海の道。街道沿いに松が多いのは、やはり潮風に強いからなのだろうか。
この街道を歩きながら、昔の人々は江戸へ、あるいは江戸から遠い旅へと出かけていった。きっと道すがら、おいしい海の幸と目の前に広がる美しい風景に、旅の疲れを癒やされたことだろう。
島崎藤村・終焉の「静の草屋」
ひっそりと。
穏やかに。
質素に。
まるでゆっくりと時そのものが止まっているかのような場所だった。ここで暮らしたのはわずか2年ほどだという。人がそれぞれに描く「最もすてきな場所」の形は、こうも人によって違うものなのだとしみじみ想う。飾り気はないけれど、きっと穏やかで幸せな時間を過ごしたのだろう。
旧吉田茂邸で思い知る、現代にもある格差社会。
打って変わって、旧吉田茂邸はまるで別世界だった。こんな場所に住む人がいたとしたら、それはもう遥か遠い天上の人だ。
高台にある吉田茂像の立つ場所から眺める海は、言葉を失うほどにきれいだった。その優雅さを目の当たりにして、なんだか急に、世の中の「格差」をしみじみと実感させられる時間でもあった。けれど、戦後の混乱期に総理大臣を務め、「人を食ったような」飄々とした佇まいで長生きしたというエピソードは、いかにも大物政治家らしくてどこか憎めない。写真はほんの一部にすぎないが、ぜひ実際に足を運び、その圧倒的な空間を体験してみてほしい。
大磯港にて、海の恵みに舌鼓
たくさん歩いたあとは、お楽しみのお昼ごはん。
大磯港の食堂では、すでに30分待ちの行列ができていた。狙っていたお刺身定食は早々に売り切れ、生シラス丼も目の前で完売……。けれど、運ばれてきた「イサキの塩焼き定食」は絶品だった。
ちなみに「大磯港めしや」は11時開店。1日100食あるかないかとのことなので、絶対に食べたい方はお早めに。行列必至の人気店だ。
旅の締めくくりに
美しかった大磯散歩のフィナーレは、いつものように冷えたビールで!
個人的に大磯は、観光地としてぜひまたゆっくり訪れたい場所になった。今回は行けなかった澤田美喜記念館や、そのほかの著名人の別荘地ということもあり、旧跡も多い。まだまだたくさんの「昔の日本」の気配がこの街には眠っていそうだ。
いつかまた、きっと。
2026年10月
女子高での秘密・・・
私の高校生時代の話である。
私の通った高校は女子高で、その地域では割と有名なお嬢様学校だ。行く気のなかった女子高への進学を強く望んだのは母だった。一人っ子として親の期待を裏切れないという「縛り」が染みついていた私は、内なる反抗期を抱えつつも、母の願いを拒めなかった。救いだったのは、制服がとても可愛かったことだ。夏服、春秋服(中間服)、冬服と揃ったジャンパースカートにブラウス、リボン、ブレザーと・・・。制服に不満はなった。が何しろ家から1時間半ほどかかる遠さである。毎日よく通えたものだ。
女子高の雰囲気は共学校とは違うだろう。中学の共学しか知らないが、仲良しグループはありつつも、クラスの雰囲気が悪いわけではない。(いや・・・これは私のいたクラスがそうだっただけなのかも)何がいいかって、「恋の相手が被らない」ことだ。恋のライバルは同じ学校にはいないのだ。これって女子にとっては最高の設定では?そのため、恋話(コイバナ)もオープンだった。庶民的な私から見れば、お嬢様たちの恋愛事情はなかなか興味深い。彼女たちの恋の相手は、家庭教師が多いからだ。
つまり、お嬢様は大学生の家庭教師を雇うパターンが多く家庭教師が初恋の相手、もしくは初めての恋人という話を耳にすることが多かった。
赤裸々にキスのシチュエーションについて語る子もいれば、恋のライバルに自身の母親のことをあげる子もいた。お嬢様の世界はなかなか刺激的だ。女性にはいろんな種類がいるが、女子高の中で自分に仮面をつける子はそれほどいない。と、思う・・・
思春期の女子が一番気にする男子がそこにいないのだから。
そういえば・・・・・余談ではあるが、女子高らしく卒業後に母校の教師と結婚する女生徒もたまにいた。多くは語らないが、意外にある事実なのだ。
さて、そんな仮面のない日常の中で、私は一人のクラスメイトと出会った。友人というよりは、「書いたものを読ませてくれる相手」だ。彼女はいわゆる「腐女子」のはしりで、当時はまだ珍しかった男性同士の恋愛小説を書いていた。同人誌に寄稿していた彼女は、冊子が発行されるたびに学校へ持ってきては、私にだけ読ませてくれた。席が前後ということもあって話はよくしたが、彼女の作品を読むきっかけがなんだったのかは忘れてしまった。ただ音楽活動をしていた私もオリジナルの詞を彼女に見せていた。幼き未熟な表現者同士。なにか通じ合うものがあったのかもしれない。
それはそれは官能的な小説だった。当時そんな小説を読んでいたことは友達には話していないし、一緒に音楽活動していた男子高校生にももちろん話していない。
そう。これは女子高時代の二人の秘密なのだ。
初めて彼女に作品を渡されたのは、授業と授業の合間の休み時間
「よかったらこれ読んでみて」
なにげなく受け取って開いたページに飛び込んできたのは・・・・・
衝撃だった。こんな世界があって、こんなふうに表現するのかという。
二度目は
「続きが書けたんだけど読む?」だった。
私は「もちろん」と答えた。が、この世界を知ることのちょっとした後ろめたさもあった。
彼女からは、感想も求められた。私にとっては未知の世界だったが、それでもキャラクターにはとても魅力があった。「このキャラクターのこの表現が最高!」とか「この場面での二人の会話がなまめかしい」とかそんな感想をのべたと思う。女子高生が男同士の恋愛を描く。すごい世界だなと当時は感動したものだ。仮面はつけていないけど、そんな秘密が女子高時代にはあった。
いやこうして書いてるのだからもう秘密ではないけれど、あの時あんな鮮烈な物語を紡いでいた彼女はどうしているのだろうか。もし彼女が今「書く人」になっていたとしたら素敵だな。どんな物語を書いているのか想像は止まない。
2026年10月
「正しい」は「正しくない」
これは、大学生の青春真っ只中の頃のお話。
私は友達とライブに行く予定でチケットを買いました。
そのすぐあとのこと、母から「法事の日が決まった」と告げられた日程が、なんとライブの日と同じでした。「これは仕方ないな」と思い、「その日はライブに行くから行けない」と母に伝えました。
すると母は、
「ことわりなさい。うちの娘だけ出席できないなんてダメ」
と言います。
「チケットだってもうとれたし、友達との約束が先なんだから」
と反論すると、
「なに言ってるの。友達より家族の法事が大事でしょ」
___と、押し問答に。
私は先に約束した友達を選びました。
理由は結婚式やお葬式ではないこと。法事に行けなくてもお墓参りはできるし、
あとで仏前に手を合わせることも可能だからです。
しかし母はその日から3か月も口を聞いてくれませんでした。
ご飯は作って食べさせてくれますが、完全に無視されました。
それならそれで仕方ないと思っているところに、最初に音をあげたのは父でした。
「お母さんにあやまってくれ。お父さんはお母さんの味方だからな」
それはわたしにとってショックな言葉でした。
大好きな父が、わたしより母が大事だと宣言したわけです。
深い悲しみとともに、「わたしが謝れば丸くおさまるなら……」と母に謝りました。
次の日から、母は何もなかったようにいつもの仲良し親子に戻りました。
母は優しく厳しく、正しいことが好きなタイプです。
ただ、「母の正しさは母から見た正しさにすぎない」ということを、母自身は理解してくれていない。
そんな不満をいつも心に抱いていましたが……。
わたしはそのことがあってから、自分の都合は二の次にするようになりました。
自分の都合で予定を断り、人に悲しい思いをさせることが怖くなったのです。
そこでもうひとつの教訓も得ました。
「『正しい』は、時には『正しくない』ということになる」という気づきです。相反する事情が起きた場合は、まず話を聞き、自分の正しさを主張しないでおこうと決めました。
決めたのですが…
ところが、自己主張は強くないのに、周囲の言葉には流されやすく、すぐに感情移入するようになってしまいました。
わたし以外の人が悲しんでいると、その人たちの「悲しい」をまるごと「正しい」と言いたくなってしまう性分に……。
そのため、職場でよく上司とぶつかってしまったりしていました。けれど、上司には上司の立場があることもわかっているので、悲しんでいる同僚たちには「上司にもこんなにいいところがあるんだよ」と中和させようとしてみたり。なんとも中途半端な人間でした。
若い頃のトラウマは、なかなか剥がすのが難しいものです。
なにか大きなきっかけがないと、自分の性分だって変えられません。
わたしの場合は、それが「癌」になったことでした。
すべてを変えることはできないけれど、「正しい」ではなく「どうしたいのか」で決めることにしました。
若さを通り越した今では遅い気づきではありますが、
今は少しわがままに生きております。
2026年9月
麻布十番・歴史をたどる墓地さんぽ
福沢諭吉~赤い靴の女の子
今日の墓地(ぼち)散歩は、麻布十番駅からのスタート。目的地へ向かってまっすぐに歩を進め、最初に向かったのは善福寺だ。ここはかつてアメリカ公使館が置かれた場所であり、タウンゼント・ハリスが下田から総領事として着任し、さらに公使となって入った歴史の舞台でもある。
境内には、樹齢750年以上といわれる見事な「逆さイチョウ」がそびえ立つ。第二次世界大戦の戦火を被り、痛々しい焦げ跡が今も残るものの、その姿はどこまでも堂々としていた。雄と雌の両方の性質を持つという珍しいこのイチョウは、国の天然記念物に指定されている。
その善福寺の境内の一角に、福沢諭吉のお墓があった。驚いたのは、それがいたって普通のお墓だったことだ。「派手で大きなお墓にするな」という本人の意向があったという。
境内をさらに歩くと、小説家・源氏鶏太のお墓もあった。サラリーマンの悲喜劇を描いたその作品群は、かつて多くの映画やテレビドラマ化されたという。当時は不勉強にして存じ上げなかったが、帰宅してから母に尋ねると、「東宝だね」と即座に答えが返ってきた。世代を超えて愛された、まぎれもなく一世を風靡した作家なのだと実感する。
また、墓碑というわけではないが、シャンソン歌手の越路吹雪と、その伴走者であり作詞家である岩谷時子のモニュメントもひっそりと佇んでいた。
善福寺をあとにして、次に向かったのは賢崇寺。ここは佐賀藩・鍋島家の菩提寺として知られているが、歴史の裏面としては、二・二六事件の青年将校たちが眠る場所としても有名である。もっとも、門をくぐってもどれが誰の墓なのかは見当もつかない。鍋島家の広大な墓所は一か所に固く閉ざされており、中へ入ることはできなかった。あとから知ったところでは、ここには川島なお美やかまやつひろしのお墓もあったらしい。さすがに今回はそこまで意識が回らなかったが、またいつか、ゆっくりと訪ねてみたいものだ。


賢崇寺へ向かう途中の道すがら、「きみちゃんのモニュメント」に出会った。あの有名な童謡『赤い靴』のモデルとなった女の子の像である。
私は今日、彼女の本当の物語を知った。それはあまりにも悲しい実話だった。きみちゃんは、異人さんに連れられて外国へ渡ったわけではなく、そのはるか前、ここ麻布の地で幼い命を落としていたのだ。その切なさを胸に像を見上げると、風が少し冷たく感じられた。なお、この赤い靴の女の子の像は、静岡、横浜、そして北海道にもあるという。
散策の締めくくりは、駅の出入り口のすぐ横にひっそりと佇む麻布十番稲荷へ。麻布十番といえば、高級感とかセレブ感があるイメージだが、300年も続く麻布十番商店街など親しみやすい下町の雰囲気も残している。それでいて、国際色も豊かなのだから、この麻布十番という小さな集合体は不思議な街だ。そんな場所で、静かに歴史の断片と出会う、味わい深い一日の散歩となった。
2026年9月
好きじゃないのに惹かれたもの
学生の本分は勉学だが、高校生の頃の私は学習意欲というのもは皆無に等しかった。
授業中はとりあえず座って聞いているものの、復習も予習もほぼしない。
特に大嫌いなのが数学だ。中学生の頃から苦手意識しかなかった。それなのに、高校のカリキュラムは数学、物理、化学、生物と、理系科目のオンパレード。中学までの理科がより専門的に細分化されていく中で、不思議と惹きつけられたのが「物理」だった。
理系全般が好きというわけではないのに、物理の授業はなぜか面白かった。何が面白いのか、当時は自分でもよくわかっていなかった。ただ、席が前の方だったこともあり、なんとなく真剣に聞いていた。先生ともよく目が合った。真面目そうな「おじさん先生」が楽しそうに語る、自然界のルールや定義、数式の数々が、なぜか妙に肌になじんだのだ。結果として成績は良かった。
「もしかして、私は理系が好きなのか?」とも思ったが、化学や生物には一向に興味が湧かず、相変わらず数学は苦手なままだった。
こうして大学生になった私は、よりによって苦手な分野に足を踏み入れることになる。
選んだ学部は家政学部。家政学部と聞くと、多くの人は服飾や栄養などを想像するだろう。
その通り。私は裁縫も料理も大の苦手である。それなのに、なぜ家政学部へ? ……実は、そこには「衣料管理士」というコースがあり、裁縫や栄養学が苦手でも進める道があったからだ。
ここではいった研究室が「材料物理学研究室」。布素材の特性を物理的に探るような研究をしている。ここで私は、高校時代なぜ物理に惹かれたのか、その答えを知ることになる。
担当の中山教授が、研究室に入って最初の講義でこんなことを話してくれた。
「『恋愛の方程式』というものは、人それぞれ違うと思います。たとえば私は、こんなふうに考えます」
そう言って、先生は黒板に数式を書き始めた。
「さあ、みなさんはどうですか? この社会には様々な現象が生じます。それを定義づけたり証明したりするのが物理学です。それは人の気持ちだって同じこと。感情という現象にも、人それぞれの『定義』があるのです」
私は目から鱗が落ちる思いだった。私が物理に惹かれた理由は、まさにこれだったのだ。目の前で起きている事象を定義づけ、説明をつける。その行為そのものに、私はずっと魅力を感じていたのだ。
私は今でも数学は嫌いだ。しかし、現象に対して理由付けをしたがる自分の性分を、ようやく理解することができた。
それは生活の中で起きる物理現象だけでなく、人の感情についても同じこと。数式という道具を使えば、複雑な人の心模様も、少しだけ整理しやすくなるのかもしれない。
…でもやはり、私は数学が嫌いだ。
2026年8月
墓地さんぽエッセイ
~歴史の静寂に触れる護国寺で刻をつなぐ
有楽町線・護国寺駅を降り、階段を登りきると、そこには歴史の断層のような街が広がっている。駅のすぐそばには出版界の巨人・講談社のビルがそびえ、その背後には明治の胎動を感じさせる静寂な空間、護国寺が鎮座している。今回の散歩は、まさに日本の近代史を駆け抜けた人々との対話のような時間となった。
墓地へと足を踏み入れると、そこには時代の主役たちが静かに眠っている。大山倍達や梶原一騎といった、大衆文化に熱狂を生んだカリスマから、三条実美や大隈重信、山県有朋といった明治国家の設計者たちまで。墓石をひとつずつ辿ることは、まるで教科書のページをめくりながら、その裏側にある個人の人生の重みに触れる作業に似ている。
特に印象に残ったのは、政治家たちの墓碑の前で感じた「生身の人間としての時間」だ。鳩山邦夫氏の墓前に立ったとき、法務大臣としての激務や在りし日のニュースが脳裏をよぎり、その若すぎる旅立ちに胸を突かれる思いがした。また、山県有朋の墓の堅牢な施錠を前にしては、彼が築いた軍事国家という硬質な歴史が、いまもなお現在の私たちに問いかけてくるものがあるように感じられた。人となりとしては、庭園愛好家としても知られていて椿山荘が有名だが、明治という変動の時代に軍人が政治家になる。それは、江戸時代から連綿と続いてきたものにほかならず、どうしても軍事と政治が切り離せないことを今も昔も感じるのは私だけだろうか。
一方で、歴史を形作ったのは政治家だけではない。ジョサイア・コンドルという建築家の名は、明治という時代がいかに西洋の息吹を取り入れ、新しい美学を模索したかを物語っている。彼の設計した洋館の数々が、今も日本の各地で見ることができるのはとてもうれしい。おしいのは、有名な鹿鳴館。時代に翻弄され老朽化し、老朽化と戦時体制における世間の風当たりも強まり解体されたという。今まさにあってほしかった建築物かもしれない。日本で生きた外国人ではあるが、河鍋暁斎の弟子であったことがとても印象的で、日本の文化や伝統にとても興味をもっていたこともうかがえる。だからこその日本での墓というのが、感動的でもある。また、団伊玖磨の随筆『パイプのけむり』が36年間という驚異的な期間連載されていたという事実は、ひとつのことを継続する人間の底力を教えてくれた。作品というのは後世に残っていくと悪しき時代も善き時代も明るみになり未来を生きる私達の糧にもなるのだと思い知る。
最後に訪れた鳩山会館の威容は、圧倒的だった。大正時代に建てられた私邸の、「贅を尽くした」空間に身を置くと、現代にも通づる格差を感じてしまう。歴史的建造物という反面、その財力に圧倒されるのだ。お金がないと政治はできない。政治家になれない時代だったのか、それは現代もそうなのか、考えると嫌になる。ただ、この私邸に身を置くと、ただただ素晴らしいな、美しいなと感じてしまうのも人間の感情だ。
護国寺の散歩は、現在の私たちの生活へ歴史をつなぎ、それをどう受け止めていくかという時間であり、今と昔を切り離しては考えられない時間であった。
帰り道、腿に感じた疲労感は、歴史という長い時間をまるで旅したような証のように思えた。
2026年8月
墓地さんぽエッセイ
~「生まれては苦界、死しては浄閑寺」
――吉原を巡る一日
陽射しの中にどこか冷ややかな風が混じる日、私は初めて、吉原へと足を踏み入れた。
華やかさとその裏側にあった深淵――吉原遊郭。大河ドラマでその姿が鮮明に浮かび上がった今、人身売買という時代があった中で浮世絵などの文化や遊郭独特の伝統やしきたりなどが生まれた稀有な場所を私はどのように感じるのだろうか。
最初の目的地、浄閑寺。ここは「投げ込み寺」と呼ばれている。
安政の大地震の際、身寄りのない遊女たちが文字通り投げ込まれるように葬られた場所であり、その数、実に一万一千人。境内には、彼女たちの悲哀を詠んだ「生まれては苦界、死しては浄閑寺」の碑がひっそりと佇む。
吉原一の美女と謳われながら心中で散った若紫の墓を前にし、また、永井荷風が死してなお憧れたという浄閑寺の空気に触れていると、胸が締め付けられるような思いがした。遊郭という場所は、現代の価値観で語るにはあまりに複雑だ。人身売買という非人道的な背景を持ちながら、そこから浮世絵や華麗な装束といった、日本の粋を象徴する文化が生まれたこともまた事実だからである。江戸のメディア王・蔦屋重三郎がここから生まれたことも、不思議な因縁を感じる。
足を延ばして訪れた樋口一葉記念館も印象深い。貧困の中で筆一本で家族を支えた彼女が、吉原のすぐ裏、龍泉寺町で過ごした「奇跡の14ヶ月」。水はけが悪く、蚊が舞うような貧民街で、雅文体に命を削り込んだ彼女の息遣いが、資料の向こうから聞こえるようだった。
吉原大門跡から遊郭のあった方角を覗くと道が大きくゆるやかに湾曲している。それは昔と変わらない風景と言える。遊郭が庶民の暮らす町屋からは見えないようにする工夫なのだろう。大門をくぐれば別世界なのだ。
その吉原大門跡を過ぎると、見返り柳だけが物言わぬ証人として立っている。今の吉原は、遊郭があったことさえわからぬぐらいあとかたもなく消え去り目を閉じようとその喧噪な夜の風景を知るものはいないだろう。
歴史の重みに少し疲れを感じた帰り道、重い気持ちを抱えたまま、空腹という生きるための欲求にふと引き戻される。
私を救ってくれたのは「桜なべ」の香りだった。
明治38年創業の「中江」でいただいた桜なべ。なぜ遊郭の近くに馬肉料理が栄えたのか――それは、金を使い果たした客が馬を質に入れ、残された馬が食材となったという説や、遊郭へ通う男たちのスタミナ源だったという説など、なんとも人間臭い逸話に溢れている。甘辛い香りと共に胃袋に収まる熱い肉は、現代の私をも力強く癒やしてくれた。
かつての男たちが通った店に今、女である私が鍋をつつく・・・不思議な感じだ。
吉原を離れ、たどり着いたのは浅草。「神谷バー」にて、明治のひとときを楽しむとしよう。
太宰治の『人間失格』にも登場する「電気ブラン」をグラスに注ぐ。ビリリと舌を刺激する甘さは、明治のモダンと下町の喧騒が混ざり合ったような不思議な味だ。明治を彩る文豪たちはここで何を語り合ったのだろうか。
今日巡った場所の華やかさの裏側に積み重なった無数の悲哀や、自由意志が絵空事であった時代の窮屈さゆえの美しきもの。
時代の背景で文化は生まれ育まれる。そこにどんな痛みがあったとしても。複雑な気持ちのまま、私は夕暮れの浅草を後にした。
2026年7月
グッド・オーメンズを観て
ちょっと真面目な話をしてみる。
最近、配信サービスで『グッド・オーメンズ』というドラマを観ている。まだ視聴の途中なのだが、これは単なる感想ではない。
本作は、神と悪魔と人間とを描いたとてもコミカルな話で、皮肉の効いた物語である。
作者は「善と悪」を真正面から捉えるのではなく、斜め上から見下ろすように描いている。そこが実に哲学的だ。善が悪に見えたり、悪が善として振る舞う。その姿は、あまりにも「人間らしい」ではないか。それを天使と悪魔が演じているからこそ、とってもおもしろさが際立つ。このドラマを観ていると、人間の複雑な思考を神が創造したとはとても思えなくなってくる。歴史の長さでは神に及ばないものの、人間とはなんと愛すべき、不可解な生き物なのだろうか。
最近、日本の古代史にはまっているのだが『古事記』などを紐解くと、神々の行動から教訓を得ることもあれば、その理不尽な振る舞いに首をかしげることも多い。「神様だから仕方ない」と片付けることもできるが、これらの物語における神々の行動には意味があって、それは人間に必要な感情の機微や、それをコントロールするための知恵と地続きになっているのではないか。
ドラマの中ルールでは、天使は嘘をついてはいけないが、悪魔は平気で嘘をつく。
人間の世界ではよくあることだが、「真実が人を傷つけ、嘘が人を救う」ことが往々にしてある。私たちは大人になるにつれ、その矛盾を知っていく。
作中では、旧約聖書の『ヨブ記』も描かれる。正しい信仰生活を送っていたヨブが、神と悪魔の賭けのような思惑によって、財産や家族、健康のすべてを奪われる理不尽な試練だ。新約聖書『マタイによる福音書』の「右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出せ」という一節もそうだが、これらは信仰心の清らかさを物語ると同時に、どこか背筋がゾッとするような冷たさを感じた。
ドラマでは、この『ヨブ記』の悲劇を、悪魔が「悪知恵」で救おうとし、天使がそれに加担して「嘘」をつく。それこそが、まさに人間が選びそうな選択なのだ。
ドラマの具体的な展開は伏せるが、このドラマを観て、そして古代史に興味を持っている今の私が、思ったことがひとつある。
宗教や伝説、古代の歴史に登場する「神」という存在。それらが生まれたのは、人間が純粋な信仰を捧げるためだけではない。人間が抱くあらゆる感情と向きあうためにあの理不尽で、しかし人間臭い神々という存在が必要だったのではないだろうか。
2026年7月
活字中毒から・・・
過去の話だが、数年間ほど「文字が読みたくて仕方ない」時期があった。
対象は何でもよかった。小説、雑誌、学術書、あるいは家電の説明書。とにかく文字が目に飛び込んでくることが快感で、忙しい仕事の合間の通勤時間さえ、格好の読書タイムとして待ち遠しかったのを覚えている。
当時は自分勝手に「活字中毒」なのだと思い込んでいたが、後にネットで調べると、実際にその言葉が存在することを知った。読書家に多く、文字を読んでいないとイライラすることもあるという。私の場合、そこまでの禁断症状はなかったものの、買い物の最中に商品のパッケージにある細かい説明まで隅々読んでしまう癖は、今振り返れば一種の「熱」に浮かされていたのかもしれない。
ただ、当時の私は、仕事で出会う年上のお客様との「経験値の差」を知識で埋めようと必死だった。社会全般の知識を吸収しようとする切実さが、結果としてあらゆる活字への扉を開き、薄く広い興味を次々と沸き立たせてくれたのは確かだ。
その「中毒性」が落ち着いたのは、当時の仕事に区切りをつけた頃だった。
手当たり次第に読む段階を過ぎ、興味のある分野や好きな本をじっくり選んで読む、いわゆる「普通の本好き」に戻ったのだ。しかし、それと入れ替わるように、知識を吸収する欲求は「書く」ことへと形を変えていった。
最初は仕事のアイデアや決意を記す「お仕事日記」から始まった。日々の思考を文字に起こす習慣は、新しい仕事への向き合い方にも大きな影響を与えたと思う。そうして何年かメモ書きのような日記を続け、その仕事も今年で終えたわけだが、形を変えながら今も記録は続いている。日々の小さな出来事を書き留めておけば、後で読み返したときに当時の記憶が鮮明に蘇る。そうした時間に顔がにやけている自分がおもしろい。
話が少し脱線するが、二年ほど前から古代史に深く興味をいだいた。
またもや文献を読み漁る日々が始まり、最近では動画での学習も加わった。それらを自分なりに考察し、記録したノートはすでに十三冊に及ぶ。
「書く」という行為自体が好きなのだと自覚したが、同時に、自分が書いた文章やメモを読み返す時間もたまらなく好きだ。
そこで気が付いた。私は「活字中毒」を経て、今は「文字フェチ」になったのだと。
見たもの感じたもの、出会った経験や考えを書き残しておくことは、未来の自分の楽しみになるだろう。
かつての数年間にわたる「活字中毒」は、「書く」に至る病だったのかもしれない。
2026年6月
声をかけられる損得の日
私は、昔からなぜか人によく声をかけられる。
その理由は自分でも全くわからない。道を聞かれるのは日常茶飯事だが、病院などの待合室などでも、目を合わせたつもりすらないのに話しかけられる。
先日は、スーパーの駐車場でのことだった。
「あ、どうも。この車、お宅さんの?」
突然、見知らぬおじさんに話しかけられた。
「はい、そうですけど…」
「シエンタだね。色もいいね」
「はぁ、ありがとうございます」
「内装がいいね。オプション?」
「いえ、標準で選べますよ」
「へぇ、選べるの?布張りいいね。こういう車もいいなと思ってね」
そこまでは、よくある車の世間話だと思っていた。だが、おじさんのトークはここから加速する。
「私の車は軽なんだけど、見てくれる? 業者に頼んでキャンピングカー仕様にしたんだよ。400万もかかっちゃってさ」
「へぇ、すごいですね。この車よりお金がかかってますよ」
「だよね! 友達にも、普通にいい車買えるだろってバカにされるよ。ははは!」
話題はそこからなぜか、野球の大谷翔平選手へと飛んだ。
「ところでさ、大谷翔平は好き? まぁ、嫌いな人なんていないか。実は私、酒屋をやっていてね。日本ではあまり出回っていない『大谷翔平のお酒』を置いてるんだよ。お父さんと知り合いでね、特別に置かせてもらってるんだ。今度寄ってよ」
おじさんはスマホを取り出し、写真を見せながらさらに続ける。
「大谷くん本人には会ったことないけど、一平さん(元通訳)ならよく知ってるんだ。アメリカにある彼の父親の店によく行く縁で、折れたバットをもらったこともあるよ。次に日本に来るときはサイン入りバットを持ってきてくれるって言ってたんだけど……あんなことになっちゃってねぇ。ほら、これ、彼にプレゼントしようと思って作った印鑑なんだよ。印章って日本らしいだろ。だからプレゼントしようと思って作ったんだけどね。渡せずじまいだ・・・」
驚くようなエピソードの連発に、私は話を遮るタイミングも逃し、ただ立ち尽くすしかない。そのとき、近くに停まっていた車からけたたましい警報音が響いた。
前に止まっていた車の助手席のおばあちゃんが何かを誤操作してしまったらしい。おじさんは「おっと」と駆け寄り、パニックになっているおばあちゃんを助けにいった。
(その間に消えるべきだったか……)
音が鳴り止み、おばあちゃんが安心したのを見届けると、おじさんは再び私のところへ戻ってきた。
「いやー、長話しちゃったね。引き止めて悪かった! ぜひ今度、うちの店においでよ」
そう言って、おじさんは満足げに自分の車に乗り込んで去っていった。
……一体、何だったのだろうか。
きっとおじさんは、誰かに話したくて仕方がなかったのだろう。
私はこういう「気のいい人」から、どうにも逃げられない。
逃げるのが下手なのか、嫌な顔をしないせいなのか。自分では「話しかけないでオーラ」を出しているつもりなのだが、美容院くらいでしか効果がない。
この顔は得なのか、それとも損なのか。
いいこともあれば、面倒なこともある。
ただ一つ確かなのは、その日買ったばかりのアイスが、おじさんのトークが終わる頃にはすっかり溶けていたということだ。
2026年6月
みたらし団子
最近、仏様へのお供えにみたらし団子を買うことがある。
スーパーで見かけるのはおおよそ3本パックのものだが、子供の頃は近所の団子屋で1本から買えたものだ。
愛知県から関東圏に引っ越してきて、団子の「定義」が決定的に違っていることに驚いた。それは、みたらし団子が甘いたれで覆われていることだ。
名古屋に住んでいた頃のみたらし団子は、団子が「むぎゅー」とは伸びないし、あんなに甘いたれで覆われてもいなかった。まるで蒲焼のように、串に刺した団子を焦げ目がつくまでじっくり焼き、少し甘めの醤油だれにたっぷり浸しては、また焼く。醤油の焦げる匂いと、団子に刻まれた香ばしい焦げ目。早く早くと、口と心がせがむのである。
串をくるくる回しながら焼く団子。仕上げにたれをもう一度くぐらせ、さっと炙ってから、薄っぺらい竹の皮に包んでくれた。もう遠い昔の記憶だ。
一方、関東のみたらし団子のたれは、甘くてトロンとしている。葛餡(くずあん)でできているからだ。「あぁ、こちらにはこれしかないのか」と落胆したのを覚えている。
名古屋のみたらし団子にお上品さはない。お茶菓子には向かないかもしれないが、子供から老人まで、おやつには最高なのだ。
もしかして、私が思っていたあの焼き団子は、そもそも「みたらし団子」という名称ではないのだろうか。
気になってインターネットで調べてみることにした。
調べてみて、まず気づいた。関東で買うみたらし団子は4玉だが、名古屋の団子は確か5玉だったはずだ。
そして驚いたことに、みたらし団子の発祥は京都・下鴨神社の「御手洗祭(みたらしまつり)」や「葵祭」とされるらしい。江戸時代に江戸へ伝わり、現在のような形(4玉・葛餡)になったようだ。つまり、私の食べていた名古屋の団子こそが、原初の形を色濃くとどめていたということだ。なぜか、無性に誇らしい。
だが、現在関東圏に住む私は、この昔ながらの団子に一向に遭遇できない。
どうしても、なんとしても食べたくなった。「新幹線で名古屋へ行こうか」——そんな衝動に駆られるが、そう簡単にはいかない。
そんな折、ふと思い出したことがある。
名古屋発祥の「コメダ珈琲店」だ。最近、和風喫茶の「おかげ庵」という業態ができ、そこでは自分で団子を焼けるという情報をテレビで見た気がする。
「これは、行くしかないだろう」
私は団子好きの友人を誘い、一番近い新宿店へと足を延ばしてみた。
お昼時を外した午後二時。それにもかかわらずお店は混んでいて、なんと十二組待ち。整理券は「百番」だった。なんとも縁起のよい番号ではないか。
待つこと四十分。ようやく席に案内された私たちは、団子三本とあんみつ、そして飲み物を注文した。
店員さんが運んできたのは、小さな電気七輪のような焼き台だ。待ちに待った団子もやってきた。玉数は四つだが、今はそんなことは構わない。さあ、焼きましょ、焼きましょ。
焦げ目がついたら、醤油にくぐらせて、また焼く。じゅっと音がして、あの匂いが立ちのぼる。
これだ。
一口かじる。
醤油の焦げた香ばしさが、まっすぐに記憶を引き戻す。
確信した私の目の前で、友人も「おいしい」と笑顔を見せてくれた。
慣れ親しんだ醤油の味。
どうやら、私の中の「みたらし団子」は、ちゃんと残っていたらしい。
2026年5月
ありがたき「優先席」
私が身体障害者手帳を持つようになって4年が経つ。
ストマ(人工肛門)のためのパウチなど、必需品を購入する際の公的援助を得るためだが、社会の中にあるこの制度のありがたさを日々実感している。
数年前のある日、混み合う電車の中でいつものように立っていた。それが当たり前の日常だったからだ。ところが帰宅して驚いた。パウチの中が血だらけだったのだ。
一瞬、腸からの出血かと焦ったが、原因は違った。私のストマが、摩擦で傷ついていたのだ。
私のストマは少し突起している。他人の体に触れれば、相手に違和感を与えてしまうかもしれない。だから私はいつも「人に触れないように」とカバンでカバーしていたのだが、それが仇となった。満員電車で押し込まれ、カバンとストマが擦れ続けてしまったのだ。
「守るためのカバン」が「傷つける凶器」に。そんな真逆の事態になるなんて・・・・
それ以来、私は市役所でヘルプカードをもらい、できるだけ優先席のある車両に乗るようにした。
しかし、現実は甘くない。カードを下げていても、優先席に座る人たちの多くは目を閉じている。「席を譲る」という空気はほとんど流れていない。立っているしかない時、カバンを前に抱えるとまたストマを傷つける恐れがある。かといって横や後ろに避ければ、今度は他人の邪魔になる。満員電車の中で手でストマをガードしながら立ち続けるのは、本当に神経を使う作業だった。
この4年間、一度も席を譲られたことはなかった。私がおばあさんに見えるわけでもなく、外見からは障害があるようにも見えないのだから、当然かもしれない。
ところが先日、初めて席を譲ってくれる女性がいた。
私のヘルプカードに気づき、「どうぞ」と促してくれたのだ。ものすごく感激した。しかし、私は反射的に「大丈夫です」と答えてしまった。その方は私よりずっと年上に見え、申し訳なさが勝ってしまったのだ。それでも彼女は「どうぞ」と席を立ち、離れたドア付近へ移動していった。
私は「ありがとうございます」と言って座った。だが、胸のうちは複雑だった。次の駅で目の前の席が空いたのに、彼女は座ろうとしなかった。一度立ち上がると、再び座るのが気まずいのかもしれない。彼女が降りるまでの4駅、私はただただ申し訳ない気持ちで見守ることしかできなかった。
それから日もたたないある日、また席を譲られる機会が訪れた。
ホームの優先席車両が止まる場所で列の3番目に並んでいた。電車が着き、中から人が降りてくる。優先席からも一人が降りた。一番前に並んでいたサラリーマンが当然のようにその席に座ったが、私がヘルプカードを提げて彼の前に立つと、彼は無言ですぐに席を譲ってくれた。両隣に座る若い人は寝ている。お礼を言って着席。
彼は私の前の席の方へ背を向けて立っていた。2駅先で優先席が空くと、彼はまたそこへ座った。しかし、今度は杖をついたお年寄りが乗ってくると、彼は再びサッと席を立った。
「なんて優しい人なんだろう」と思う一方で、「最初から優先席ではない位置に移動しておけばいいのに」という不思議な矛盾も感じてしまった。
私自身、障害者手帳を持つ前は、優先席に座っていてもお年寄りや杖の方を見かければすぐに立てるように眠らずにいた。しかし、いざ「使う側」になってみると、その難しさが身に染みる。
よく、寝ている若者を起こして「お年寄りに譲りなさい」と注意する人がいるが、私はあれが正しいとも思えない。世の中にはヘルプカードを持たずに、外見では分からない痛みや悩みを抱えている人もいるからだ。
目に見えるものだけで判断することの危うさも、かといってすべてを汲み取ることの不可能さも、どちらも電車の中には同時に存在している。
あの日、パウチの中に流れた血を思い出すたび、私は自分の体を守ることの難しさを思い出す。
そして同時に、誰かにそれを理解してもらうことの難しさも。
電車に乗るという、ごく当たり前のことが、少しだけ特別な行為になってしまった。
2026年5月
ミルクカルピスと時間の楽しみ方
最近、牛乳で作るカルピスにすっかりハマっている。カルピスといえば子供時代の定番だが、大人になってからは疎遠になっていた。それが先日、ふらりと入ったカフェで飲んだ一杯に「おいしい!」と衝撃を受け、自分でも作り始めたのだ。
作ってみよう!
まずはカルピス糖質60%オフの濃縮タイプを調達した。
コップに2cmほど注ぎ、牛乳で割って氷を浮かべる。……が、何かが違う。喉に重く、カフェで飲んだ味とはズレがあるのだ。
次はカルピスを1cmに減らし、水と牛乳を半分ずつにしてみる。
うーん、これも惜しい。
試行錯誤の末、ついに正解に辿り着いた。
「カルピス1cm、水が1/3、残りの2/3を牛乳、そこへ氷少々」。
これだ。
喉に絡む重さが消え、驚くほどサラリと飲める。
この夏はアイスカフェラテと、このミルクカルピスで乗り切るつもりだ。
年月を経て、懐かしい飲み物が形を変えて生活に戻ってきた。
ん?まてよ・・・昔好きだったものを思い出して視点を変えてみるとなかなかおもしろい今を経験できるかもしれないなぁ。
「あの時のあれ、今ならこんな風に楽しめるかも」
そんな風に想像を巡らせるだけで、退屈だった時間が少しだけ急ぎ足で、彩り豊かに過ぎていく気がした。
2026年4月

